自動車レースF1のシーズンが始まりました。今年も角田選手の活躍が楽しみです。4月の鈴鹿GPにも行く予定です。私の世代は70年代のスーパーカーブームと80年代後半のF1ブームに見事にハマりました。車への憧れを持っています。社会人になったら自分の車を持つことが夢でした。最初に買ったのがフォルクスワーゲンのビートルです。個性的な車が好きです。今は個性的な車が少なくなって乗りたい車がありません。(フェラーリを買えるなら別ですけれどね)いつの頃からか、車に乗ること運転することが目的ではなく手段になってしまったからだと思います。ドライブそのものが楽しい時代ではなくなったのでしょうか。今回は目的と手段について語ります。
言葉は目的でしょうか、手段でしょうか。例えば私たち日本人が英語を覚えるときを考えてみます。学校ではたくさんの時間を英語の学習に割きました。それでも私の世代の多くの人は英会話ができません。学校での英語の授業は外国の人とコミュニケーションをとるための手段にはならなかったのです。私の場合は受験のための手段であり、勉強そのものが目的となっていました。さらに言うと外国の人とのコミュニケーションを目的にしてしまうのも違うと思います。「あ、会話できた。話が通じた」で終わってしまう可能性があります。コミュニケーションもまた手段です。その先にある目的を定めることが大切です。
日本語教師の資格を2年前に取得してから様々な現場を見てきました。勉強会やセミナーに参加してきました。今も時間が許す限りリモート、リアルにかかわらず情報収集しています。学校もいくつか見学させてもらいました。どの現場も日本語教育に熱心な人たちが集まっていました。この”界隈”に私が惹きつけられるのは何故なのでしょうか。まだ答えを探している途中ですが、一つには皆さん共通の目的を持っているからです。
「誰もが暮らしやすい、より良い社会をつくる」
「日本語」や「やさしい日本語」という手段を使って、より良い社会を作ろうという高い志をもった人達でいっぱいです。ですから出会う人達は例外なく「やさしい人」です。ただ社会の側が、そのやさしさに甘えてしまっているのも事実です。例えば外国にルーツを持つ子供たちのケアです。親の事情で日本語がわからないまま日本の小学校に通っている子供たちです。札幌市では支援はしているものの、現場で実際に支援をするのはボランティア頼みというのが実情です。子供たちに限らず日本に住む日本語を母語としない人達に日本語を覚えてもらう目的は何でしょうか。その目的のための手段のあり方は今のままで良いでしょうか。
最近は日本文化そのものに興味を持つ外国人も増えています。その場合には日本語を学ぶ事は目的になるでしょう。日本人との会話やコミュニケーションも目的になり得ます。ドライブそのものが目的になるのと同じく。一方で日本語を手段として働く、教育を受ける、生活するという人にとっては、その先の目的が大切になります。広く捉えれば共に生きやすい社会をつくる事です。そして目的達成への過程も手段も楽しめることが出来れば理想的です。どうすればそんな日本語伴走者になれるのか?考える日々は続きます。
今回はここまで。読んでいただきありがとうございます。次回もお楽しみに。